
自分は単数ではない。人の数だけ自分がある。というのは、自分があるのは、自分と人との間にあるからだ。近年、そんな新しい自我観が語られる。友人に対しては、その友人としての自分がある。教師に対しては、学生という自分がある。
親に対しては、子供としての自分がある。妻に対しては夫という自分がある。子供に対しては、親としての自分がある。店に入れば、客としての自分がある。そのように、自分という存在は、自分と相手の間にあり、その間柄の関数としての自分がある。
自我は、本質をもつ固定的な自性を持つ単数ではなく、可変的で、相手との間柄しだいで千変万化する自在性を持つものだ。その相手が、人でも、団体でも、社会でも、国でも同じで、それらとの関係の中で自分がある。
最近、ある大臣のスキャンダルが週刊誌に出た。袖にされた長年の愛人が、怒りから週刊誌に大臣からの私信を暴露し、閨房中の別人ぶりを世間にさらした。大臣としての公の顔、愛人の前での顔、それぞれ同じ人間だが、別の自分である。
大臣という名刺に印刷された社会的ば役割を担う自分と愛人の前での男としての自分、そのギャップをあげつらう週刊誌。しかし、そのギャップはあって当然、人間誰しもかかえる多重性なのだ。仏教は、とうの昔にそのことを無自性という言葉で人間存在のありかたを洞察した。
そして、縁によって、つまり人との間の関係性によって、自分ができあがり、従って、自分というものは仮初のものと喝破した。名刺に印刷された自分は、本来が無自性の自分が、会社のなかである役割を担う仮初の自分を表示したものである。